支えの「言波」

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支えの言葉
出典
感想
「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも
光はない」       『白描』

            「よみがえる“万葉歌人”明石海人 」
              荒波力/著   新潮社   より
 
明石海人
地を這うような気分のときに自分を叱咤する言葉です。
  

「可能な限り悔いる気持ちと和解することに最大限の努力を払っていただきたい。人生において、願望がすべてかなえられると考えるのは非現実的だ
おなじように、完璧でありつづけること、後悔しないこともまた非現実的である。後悔する自分を許すことだ。もっとよい選択をしていればよい結果が得られたと考えるのも真実とはいえない。あのときのあなたは、あなたなりに最善をつくしたのだ。」
  
 「永遠の別れ」 第2章「悲しみの内側」 「悔恨」 日本教文社
エリザベス・キューブラー・ロス

デーヴィッド・ケスラー
腑に落ちる言葉です。
 
 それまでの親子の間に長い歴史があって、その中で軋轢もあって子どもは親に対して複雑な思いを持っているものです。それでも、親が介護を必要とするようになった時、子どもは再び親に向き合うことが必要になります。
 その上、親から一方的に過去のことは忘れたと宣言されても、そのことによってこれまでの問題が解消されるとはとても思えません。
      ・・・中略・・・
 はっきりしていることは、過去を振り返っても意味がないということです。介護が必要かどうかには関わりなく、「今から」親との関係をよくすることはできますし、していかなければ、介護はつらいものになります。
      ・・・中略・・・
 そこで、これまでがどうであれ、これから親との関係を築いていくしかないわけですが、親と仲良くすることを最初から目標にしてしまうと、理想と現実とのギャップに悩むことになってしまいます。
 最初は、大きなトラブルなく平穏に暮らすことくらいから始めるのがいいでしょう。

       ・・・中略・・・

 親を介護する中で、何を成し遂げたかということではなく、<ある>ということに人の価値を認めること、人は自分が置かれた状況において他者に迷惑をかけているわけではなく、たとえ他者から与えられているだけであっても、他者が自分に貢献することで貢献感を持てるという貢献をしていると考えられるようになりたいのです。

  「先に亡くなる親といい関係を築くためのアドラー心理学」      
岸見一郎

  文響社

介護に関する読書はそれなりにしてきましたが「最近よく目にするアドラー心理学に基づいてはどうなのだろう?」・・・図書館のWEB蔵書検索でたまたま目にした一冊でした。
作者の岸見一郎さんはアドラー心理学の研究者ですが、ご両親を介護・看病された経験を踏まえてこの本を書かれています。

毎朝、お父上の家に行き、3食を作って食べてもらい、さて就寝というところまで見届けてから自宅へ戻るという介護・生活のお世話をされたので、書かれている事が具体的です。「うん、うん」「そうか〜」と我が身にも当てはまる事が多々ありました。

お医者さん、介護施設の従事者、介護福祉の研究者・評論家の方々の、そのお立場からの書籍も大いに参考にさせてもらいました。ですが「家庭での日常って、もっと些細なことに躓いたり、悩んで立ち尽くしたりするのよね〜、もっと突っ込んで書いてほしい」と思うものもありました。

この岸見さんのご本は「アドラー心理学」と「実際的な介護の指針」として、今の時期に読めて良かったと思いました。

 「老いた親を愛せますか?」という著作もあります。幻冬舎


「主よ、
変えられないものを受け入れる心の静けさと
変えられるものを変える勇気と
その両者を見分ける英知を我に与え給え」
ラインホールド・ニーバーの祈り
アルフォンス・デーケン神父様の著書にも同じ祈りの言葉が載っていました。
「神よ、私に変えられないことは、そのまま受け入れる平静さと、変えられることは、すぐそれを行う勇気を、そして、それらを見分けるための知恵を、どうぞ、お与え下さい」
        
「よく生き よく笑い よき死と出会う」より

こちらの方が口をついて出てきやすいですね。

ユーモアを大切にされた神父様の面白いスローガンもありました。お天気に関するものは「晴れてもアーメン、雨でもハレルヤ」だそうです(笑)。


若竹 : 若い頃は、自分が好きだって思っていても、それは「期待する自分」なんですよね。こうなりたい自分が好きなのであって。そのうちに自己犠牲というか、誰かのために生きるのが「立派な生き方」になってしまう。本当は掛け値なしの自分を愛することが一番難しいことだし、100持っていたかったけれど10しか持っていない自分を認めてあげることが一番難しい。やっぱり最終的には人と比較しないで、自分のことを認めて愛してやることが、私にとって、一番生まれてきた意味かな。そういうふうに考える。

    (中略)

若竹 : ああ、確かに。ほんとそうですね。星座って、いっぱいある星のいくつかをつなぎ合わせて「あ、ひしゃくのかたちだ」とかってやるでしょう。ああいう感じで、自分の人生の中で起きたことを線で結んだら一つの一貫性みたいなものが見つかって「ああ、私はこのことについて考えてきた、学んだ人生かな」って。人生の主人公は自分だと、これまで歩んできた道を何となく納得する時っていうのは、とても慕わしいというか。そんな感じですね。
三井住友信託
スペシャル対談シリーズ
「人生100年時代」を輝かせる、世界の見方。

対談:
佐藤浩市
若竹千佐子


たまたまWEB上で見つけたコーナーでした。読んでいて涙ぐんでしまいました。

若竹さんの「おらおらでひとりいぐも」は芥川賞ご受賞の直後に読みました。孤独の先で圧倒的な自由にたどり着いたヒロイン桃子さん、75歳。
最近映画化もされたそうで、田中裕子さん主演。良い作品になっているでしょうね。
これからも人生経験を積んだ女性がヒロインの作品をどんどん書いて頂きたいです。

話しは変わりますが
岸恵子著 「わりなき恋」はステキでした。
内館牧子著 「すぐ死ぬんだから」は興味深かったです。
かなり以前の作品ですが、田辺聖子さんの「姥」シリーズも痛快でした。

この対談の第一回目は長谷川和夫さんでした。認知症になった認知症専門医(患者として、医師として見える世界)こちらもたいへん学びになりました。
村木:
「一日が一生、と思って生きる」
「明日はまた新しい人生が生まれてくる」
「身の丈にあったことを毎日くるくる繰り返す」
        (中略)
先も見えないつらい日々だけれど、今日一日を頑張るというだけなら、できるかもしれない。身の丈に合ったことを毎日繰り返していけば、今日は大丈夫だし、明日も大丈夫。

酒井:
今日の自分は今日でおしまい。明日は新しい自分が生まれてくるから「一日が一生」ということなんだ。

村木:
考えても仕方がないことは考えない。今ここでできることを精一杯しよう。精神的にも落ち込まないように心がけよう。しっかり食べて、しっかり寝て、体調管理をしよう。
対談集:
酒井雄哉
村木厚子

『自分の「ものさし」で生きなさい』
「悩めるすべての女性に贈る対談集」という見出しと村木厚子さんに注目して読みました。
天台宗大阿闍梨の酒井雄哉さんについては「一日一生」というご著書をこの本に先立って読んでいました。

介護でも日常でもいろいろな葛藤はあるのですが、身の丈に合ったことを毎日くるくる繰り返していけば、今日は大丈夫だし、明日も大丈夫」という言葉を折りに触れて反芻しています。気持ちが楽になります。

酒井雄哉さんは千日回峰行を2回も満行された方ですが、千日というのもその一日一生の積み重ねだと仰っています。

阿川佐和子:
それからは、介護中も笑えるところを探すことにしました。  

朝井まかて:
江戸時代も、老いと笑いをうまく絡めていました。当時の川柳には、「死水を嫁にとられる残念さ」というブラックな味わいも(笑)。
私が好きなのは「鶴の死ぬのを亀が見て居る」。私の解釈ですが、長年連れ添った夫婦で、相方が息を引き取ろうとしている場面の達観を感じるんです。残る方ももうほとんどボケているのだけれど、もはやめでたさ感すら漂って、よし、私も夫を看取る時は亀の境地で行こうと(笑)。

対談:
朝井まかて
阿川佐和子

web文藝春秋
私も「笑えることやもの」を探すようにしています。川柳講座を受講したり(上達せず・・・)、TVの落語番組を予約録画するようにしたり(なかなか見る時間がとれませんが・・・)。
一番の気分転換はやはり読書です。

人を生かすには、自分もまた生かさなければならない。飛行機が緊急着陸をすることになり、酸素マスクが下りてきたら、幼い子供を連れている人はまず自分が酸素マスクをしてから、子供にマスクをつけさせることが指示されている。それはまず自分の意識が保たれなければ、幼児を脱出させることができない、という現実的な問題からものごとを見ているからである。
三人の親たちと暮らしていた時、私たち夫婦はまず自分たちが平凡に生きることを目的にした。私たち夫婦が倒れたり、離婚したり、ヒステリックになったりすると、三人の親たちの行き場がなくなるからであった。

曽野綾子

「安逸と危険の魅力」
全くその通りだと思います。
私がこうしたページを作っているのも、いろいろある日常の中で、自身の精神の平衡を保とうとしているからですね。

名越:未来の「結果」と過去の「結果」に心を引きずられ、「今、ここ」という「過程」に集中できなくなる。でも人間の充実感って、本当は「過程」の瞬間瞬間にしか得られないものじゃないかなという気はします。
    (中略)
ならば、もし小さな「損得勘定」に自分が囚われないで生きることができたら、その分無駄な精神エネルギーを使わないから疲れなくなるし、心に余裕や落ち着きが出てくる。自分の心の安定が得られると、余剰として生まれてくるのはおそらく他人への受容力です。

名越康文

「自分を支える心の技法」

『ただ普通に生きているだけで私たちは、実はかなり大きな自前生産のストレスに襲われ続けているのかもしれません。』
『ありていに言えば、「人間は空想に殺される」わけです。』
『自分を苛む原因は外側に渦巻いているのだと決めつけないで、「すべては自分の心の中で起こっているのだ」と、とりあえずでもいいから理解すること」

などの言葉は、実際はそうなのですが、改めて目から鱗でした。「意識的に、もっと心の質量の軽いところに行く」方法を知りたいと思っていました。

「修証一等(しゅしょういっとう)」も「今、ここ」も言わんとする精神は一緒ですね。
遊戯三昧(ゆげざんまい)

なすべきことに無心で取り組み、どんな状況でもそれを「遊び」のように楽しむこと。仕事や家事で努力しても結果が出ず、誰も認めてくれない時は、周りにいら立ち、自分に失望するかもしれません。しかし、精一杯頑張った事実は、あなたを成長させてくれる。何事もかけがえのない仕事と考え、自分なりに工夫することで、やりがいや生きる喜びも見えてくるでしょう。



明るく新しい日を迎えるため、寝る前30分ほど、「非思量」の時間を持つ。これは座禅の心得で、何事も考えず、頭を空にすることを意味します。ゆっくり入浴するもよし、好きな音楽を聴くのもおすすめです。とはいえ、ふとした瞬間にマイナスの方へ意識を引っ張られることもあるかもしれません。それを防ぐには、禅のことばで「三昧」と言い、何か一つに集中して心を無にすることをこころがけましょう。
雑誌より
「あなたを成長させてくれる。」というのは私の場合ちっとも実感できていないものです・・・。ただ、次の「自分なりに工夫することで、やりがいが見えてくる」というのは「そうだな、うん!」と思います。

具体策としては、ミニノートに毎日「その日ゲットした」と思う事を書いています。
知識がステップアップしたとか、「分かった!」と納得がいったことなど。
「アロマテラピーの実践ができた(掃除用スプレーを作った)」とか、手芸品を仕上げたなど、作って形にしたのも「ゲット」のうちです。
それから、精神的なことも・・・「今日は心施・身施ができた」とか書きます。
世話をした花々で「眼福〜」と思ったことや、手作りの料理で「口福〜」と思ったことも「ゲット!」のうちです。


無縄自縛(むじょうじばく)

自分を縛る縄などなく、あるとしたら思い込みに過ぎません。人の心は自由であるのに、いつしか「世間の常識」だけにとらわれ、適応できない自分を責めてしまう人も多いのです。あなたの心を縛る縄はあなたにしかほどけない。少し離れた場所から自分を見つめ、当たり前を疑うことからはじめましょう。


雑誌より 原因は人それぞれでしょうが、生き苦しさを感じるとき、この「無縄自縛」を思います。

 人に言われてイヤイヤやる、ということは、世の中に生きていると起こります。しかし、言われてイヤイヤやっているのは、絶対体によくないのです。そうではなく、その場から結果としての楽しみも十分にもらってしまうのです。そうすると、のちのち将来に貸しはないですからいつ死んでもいいのではないですか。
 今日は我慢した、というのは、今日を冒涜したようなものです。「いい一日だった。このまま死んでもしょうがないな」と思いながら、毎日枕に頭を持っていく、というところまでいくと大変なものです。
 それは道元禅師のおっしゃった「修証一等(しゅしょういっとう)」ということです。修行と悟りは一つで等しい。悟るために修行をするのではない、修行そのものが悟りだといっているわけです。
 それはつまり、結果をあとに期待して、いまを我慢するわけではないということです。いまやっていることから楽しみもそっくりいただいてしまうんですね。これの達人が観音さまという方です。

                「自燈明」より

玄侑宗久 このように日々を過ごしたいものです。
私の「ゲット!帳」少しは趣旨が合っていそう・・・。

「自分らしい生き方を周囲の人々ができるように手伝うなら、自分にふさわしい生き方をする努力を自分自身もする必要がある」

          「きれいになるメディカル・ハーブ」 三笠書房  
                   

海原純子 この言葉のおかげで、看病や介護でどんなに大変なときでも、自分のささやかな趣味や楽しみは手放さないでいようと思いました。

「布施には物だけでなく、色々な布施がある。

笑顔を施す和顔悦色施(わげんえっしきせ)、
優しい眼差しを施す眼施、
温かい言葉を施す言辞施(ごんじせ)、
体で手伝う身施(しんせ)、
善い心で接する心施(しんせ)、
席をゆずる床座施(しょうざせ)、
場所を提供する房舎施(ぼうじゃせ)、の七つである。
こうしてみると、施せるものはたくさんある。」

                            仏具関係の出版物より
村田洋一
私の場合は高齢で難聴の母とのコミュニケーションに苦労しています。大声で、繰り返し繰り返し言っても「分かったのかしら・・・?」が日常です。

これが他人様相手の社交辞令でしたら、通じなくても笑いでごまかすこと「大あり」です。心が遠い人にほど簡単です。
でも、家族は生活全般を支えているのですから、様々な状況があります。それらを説明し、納得してもらった上で、共同生活を上手く回していかなければなりません。

そもそも「大声&繰り返し」と言辞施(ごんじせ)って両立が難しいですねぇ。ちゃんと分かって貰おうと熱心になればなるほど「だ・か・ら!」となってしまいます。
解決法は「いいかげん(良い加減)」ライン探求でしょうか?「身施」や「心施」は結構しているのですから、それが「和顔悦色施」と共に、というのが課題ですね。


「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」

「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ」

「我々は現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから」
       

アラン 「あー、忙しい」「あ〜、やだ、やだ」と思うときには、口角を上げるようにしています。「笑うから幸福なんでしょう・・・?」と。